講評後

講評を終えて、気になったこと、伝えそびれた事を書きます。先生方、クリティックの方々の意見と反するところもありますので、あくまで市川個人の意見として読んでください。

  • 講評会で述べられた意見は、絶対的なものではありません。講師やクリティックの方々はそれぞれ異なった考え方や価値観を持っています。すばらしい実績やキャリアを持っている方ばかりですから、各々の経験に基づいた貴重で有用な意見であることは間違いありません。でもそれらが必ずしも正しいとは限りません。「正しさ」も誰にとって、何にとって正しいのか、という議論も常に存在します。意見の多様性に触れること、が講評会という場が設けられる重要な理由のひとつだと思っています。
  • 全体講評会へのセレクションの有無に関わらず、講評が終わっても、自分の作品として修正したり、ブラッシュアップして記録してください。何人かは全体講評会で再度プレゼンテーションしてもらうことになります。
  • データソース(取得元)については、足で稼いだり、自分で調査したものが、必ずしもgoogleや他の公開されている統計データより、価値のあるもの、とは思いません。質によります。いくら足を運んで積み上げても、公開されているデータと同じものしか取れないのであれば、あるいは公開データよりも情報量がすくないのであれば、その価値は疑わしいでしょう。公開されていない、容易に取得できないユニークな種類の情報である場合にようやくその価値が見出されるのではないでしょうか。ただし、もし公開情報などから容易にデータが取得できた場合、データ入手・整備の時間労力が大幅に短縮できるわけですから、そのアドヴァンスを生かして、他の部分でのリードが無いとバランスが悪く見えてしまうことは自明ですね。
  • 調査や分析にスペクタキュラーな・びっくりするような結果、ばかりを求めるのは危険です。そのような結果がスキルやアイディアだけによって導かれる訳では無いからです。スペクタキュラーな結果を導出するためにデータを捏造したり評価を捻じ曲げては、そもそもの意味を失ってしまいます。研究の分野でも捏造事件がたくさんありますね。もっとも悪い行為であることはわかっていても、そのような間違った方向に行きやすいことも確かです。スペクタキュラな結果をあらかじめ想定すると、陥りやすいのではないでしょうか。
    びっくりするような結果が出れば、もちろん面白い分析として評価されるでしょう。でも「そうなればラッキー」程度に認識してください。「当たり前の結果が出てつまらない」ということは良くあると思います。ですが、「当たり前のこと」「直感と相違ないこと」が、どのような要素でなりたっているか、ということを「定量的に」「客観的に」説明できることは、大変価値のあることです。その「当たり前のこと」を成り立たせている要素をコントロールすることで、「当たり前のこと」「当たり前でないこと」を、計画者・設計者の立場から再現できる(コントロールできる)可能性があるからです。